追悼文14 | 櫻井錠二先生の追懐 | 理学博士 大幸勇吉 (1866-1950) |
日本学術協会報告 第15巻 第1号 <昭和15年5月 > |
|
私は櫻井錠二先生の追懐という題で本大会に於いて講演することに致しましたがこれは先生が私の恩師であるが故のみではありませぬ先生は我国科学、従って又其の応用である工業の発展にも直接或いは間接に多大の貢献を致されて我が国家の大恩人であるが故であります。 <生い立ち省略> 先生は明治14年に5年の留学満期で帰朝せられましたが其の時先生は24歳でありました。其の9月に文部省御用掛かりを仰付られ東京大学理学部講師となり翌15年8月東京大学教授に任ぜられ後帝国大学から東京帝国大学時代を経て大正8年4月に至るまで37年間大学教授の職に勤務せられたのであります。先生は大学教授として在職中明治21年6月理学博士の学位を授けられ同24年6月評議員を命ぜられ同40年12月理科大学長に補され又大正6年8月総長事務取扱を命ぜられたる外 諸種の委員会の委員又は委員長を命ぜられたる其の数は枚挙に遑<イトマ>なき程であって,先生が大学行政の枢僕に参画せられ大学の発展のために尽くされたる功績は大なるものであります。大正8年4月大学停年制の内規に従い辞職せられた 更に東京帝国大学名誉教授の名称を授けられたのであります。 先生は明治31年4月東京学士会院(39年6月帝国学士院と改まる)会員を仰付られ大正2年7月より15年2月まで5回続いて幹事に当選し15年2月より薨去<コウキョ>の日まで5回院長に当選せられたのであります。 先生は還暦後大正9年に貴族院議員に勅任せられ同15年に枢密顧問官を拝命せられました。純全<純然>たる自然科学者としては先生が初めてこの顯職につかれたのであります。昭和11年に議定官に補せられ同又13年に宗秩寮審議官<宮内省の一局で皇族関連を司どる>仰付られ而して正二位勲一等(旭日)の栄位にあらせられたが更に本年<昭和14年>1月勲功により華族に列し男爵を授けられ尚又勲一等旭日桐花大授賞を拝受せられました。先生は本年1月28日82歳で薨去せられたのであります。 先生は英国に留学中二価の炭化水素基を有する金属化合物を合成することに初めて成功せられ、研究論文2編を Londonの Royal Society, London の化学会等に於いて発表せられた。先生は初め有機化学の領域の研究に従事せられたのでありましたが科学の発達に理論化学の必要を痛感せられ、化学者の多くが有機化学に没頭せる時代に於いて其の方面の学者の冷評をも顧みず機会ある毎に理論化学の重要なるとを論述せられたが、J. H. van’t Hoff. W. Ostwalld , S. Arrhenius, W. Nernt 等の諸大家の研究によって理論及び物理化学が急速に発展するや先生は益々其の重要なることを皷吹せられたのであります。溶液の沸点に由る溶質の分子量測定の方法に就いて先生の加熱を防ぐ方法の考案は、其の後 Beckmann 等の其の測定装置に利用せられたのであります。先生の熱心なる皷吹と其の門弟池田菊苗博士の努力の結果として物理化学の原理は欧米の何れの国よりも先んじて我が国の普通教育に導入せられ、又実業界にも夙<ツト>に其の肝要なものなることが認識せられ先生が直接或いは間接に我が国の化学及び化学工業の発展に貢献せられたることは甚大なるのであります。 明治11年東京化学会(大正10年日本化学会と改称)の創立後間もなく帰朝せられた先生は常議員或いは会長として同会の為め種々尽瘁せられ、同会の発展従って我が化学の進歩に貢献せられたる所大なるものがある。明治40年先生が大学大学在職25年に達せられたれたるとき友人及び門弟は其の祝賀会を催しその際有志者の虚資せる金額を櫻井化学研究資金として東京化学会に寄附し、而して化学会は之れによって明治43年以来毎年優秀なる化学報文提出者に櫻井賞牌に金壱百円を添えたる褒章を授与しているのである。 先生は其の活動の初期においては化学及び化学教育に重要なる貢献を致されたのであったがその後は我が国に於ける化学研究の振興並びに学術の国際的事業に大いに尽瘁せられたのである。 先生は嘗<カツ>て謙遜して自分は研究で御役に立つ事が出来なかったから、出来るだけ研究者の御世話をする事を使命と心得て居ると申されたとの事であります。又或時自分は力が足らないからせめて精神的に研究者の力になってあげたいと思って居ると言われたとの事でありますが、先生のこの精神は常に先生の言動に窺<ウカガ>われるのであります。 先生は帝国学士院の幹事或いは院長として多年辛苦経営屈せず、撓<タマ>わず以って今日の基礎を築かれ奨学資金は百数十万円に達し研究の補助又学術の発達に大いに貢献せられたのであります。先生は嘗て帝国学士院の授賞式に於いて内閣総理大臣・宮内大臣・文部大臣等の面前に於いて院長として帝国大学などの予算に教授等の研究費というものが殆ど見積もってない不都合なことを痛論せられたことを記憶しております。 大正2年高峰譲吉博士が米国より帰朝せられたる際帝国の現状に鑑み国民科学研究所設立の必要なることを高唱せられたるに端を発し、次で欧州大戦の結果欧米より医療並みに工業に必要なる薬品及び原料の輸入が杜<途>絶し、理化学の独創的研究を旺盛ならしむべきことの痛切なる教訓を得て先生等が委員となり渋沢栄一男爵の実業家も加わり、政府に建議するなど諸方面に向って大いに運動せられ茲に財団法人理化学研究所の設立を見たのであります。この理化学研究所に於いて理化学及び其の応用の研究が盛んに行われそれが学術上並びに工業上我が国家に多大の貢献をなしつつあることは周知の事実であって余りの多言を要しないのであります。 大正7年世界戦争が尚酣<タケナワ>なる最中に London の Royal Society は主なる連合諸国の学士院へ科学的万国協会を組織することに就いて協議するため其の代表者を招待しまして、我が国からは先生と田中館博士とが出席せられました。而して万国学術研究会議が創設せられたのでありますが其の際欧米諸国間に大いに議論があってまとまりかねたとき先生は其の間に立って協議をまとめられ其の成立に大いに尽力せられたのであります。 我が国に於ける学術研究会議は帝国学士院が産婆役をして大正9年に成立致しましたが之につきまして先生は大いに尽瘁<ジンスイ>せられ而して其の成立するや先生は副議長に挙げられ、同14年会長に選挙せられ爾来其の薨去の日まで再選又再選で15年間その職にあって内外学術の連絡強調に尽力せられたのであります。 理化学研究所、学術研究会議等の設立を見たその後、世界各国の産業的経済的競争は益々激烈となり尚更に学術研究の振興が我が国の現状に於いて非常に肝要なることが痛感せられ、先生は同志と相謀り心血を傾け以って国家的学術奨励機関設置の運動に邁進せられ帝国議会に於ける質問演説・学界より政府へ建議などがあり、且つ又この事が畏<カシコ>くも天職に達し、昭和7年8月20日学術振興の思召を以って文部大臣に巨額の御下賜金のご沙汰があり斯くて日本学術振興会が成立したのであります。而して先生は理事長として非常なる熱心を以って其の事に当たられ老齢を物ともせず東奔西走其の事業の発展に尽瘁せられたのでありまして先生の臨終が近づいた時に尚この事業に就いての譫言<ウワゴト>があったということであります。同会の今日までの発達は先生の非常なる努力に感謝せねばならないのであります。本年1月の学術振興の理事会の席上で先生は自分は政府から学術奨励の補助金として年々240万円を出して貰いたいと思っていると述べられましたが文部省は今年の帝国議会に於いて300万円の研究補助金の協賛を得られたのでありますが先生の御存命中にこの事のなかりしことは実に残念至極の裏であります。先生が上述の諸種の公共事業の他に尚理学文書目録委員会会長・東京女学館理事長兼館長・服部報公会理事長・啓明会評議員・三井報恩会評議員・日英協会副会長・日本中央文化連盟副会長であり更に尚理化学研究所・東北更新会・英語教授研究所・癌研究会・帝国発明協会・日本度量衡協会・白十字会・日伊協会の諸団体の顧問又は名誉顧問若しくは名誉会員としてこれ等諸種の事業に関与せられるのであります。 先生が国内に於ける諸種の事業に関与せられ直接或いは間接に学術の進歩に貢献せられたるのみならず又我が国の学界を代表して屡々<シバシバ>海外に出張せられ我が国に於ける学術の進歩を欧米の学界に紹介して以って彼我の学界の連絡を緊密にせられたる其の功績は余等学界人の殊に深く感謝せざるを得ないのであります。 国際会議などに就き概略を叙述すれば次の通りであります。 明治34年グラスゴー大学創立450年祝賀会に出席せられ其の際名誉法学博士(L.L.D.)の学位を授けられ又昭和12年に万国学術協会会議(万国学術研究会議の改名)に参列の為ロンドンに赴かれたる際 University College より名誉学友(Honorary Fellow)の称号を受けられた。これ等は先生の海外出張の最初及び最後のものでありましたがそれ等の間に於いて明治40年に万国理学文書国際会議(London)、同43年に万国学士院協会総会(Roma)大正7年に科学学士院国際会議(London)、大正11年に万国学術研究会議総会(Bruxelles)及び万国理学文書国際会議(Bruxelles)、大正12年に第2回汎太平洋学術会議(Australia)に我が代議員の団長として、昭和3年に万国学術会議総会(Bruxelles)及び第9回万国化学協会総会(Den Haag)に出席せられた。而して大正12年より同14年まで並びに昭和3年より同5年に至るまでの2回に万国化学協会の副会長選挙せられ又大正15年我が国に於いて開催せられたる第3回汎太平洋学術会議には会長として其の会議を克く主宰されたのであります。又昭和12年5月の万国学術協会会議の総会に於いて副会長に当選したる Marconi 候の薨去によって空位となれる補欠として先生は同年10月に副会長に選挙せられたのであります。 先生は又次の諸学会に於いて各名誉会員に推薦せられたのであります即ち仏国化学会(大正12年)、米国化学会(大正15年)、ソ連学士院(昭和2年)、Poland 化学会(昭和4年)及び London 化学会(昭和6年)であります。 先生は実に几帳面な方で何事も苟<イヤシク>も致されないのでありました而してその一例として私の感じた所を申上げますと、大学に於いて行われる雑誌会即ち主として外国の雑誌中の研究報告の概要を紹介する会に於いては其の報告は聴者に不可解のものが少なくないのでありますが先生は秩序整然と御話になるので初学年生でも其の大要を了解することができたのであります。 先生の円満なる常識と崇高なる人格は幼時に於ける武士道の教養と5年間英国留学中に所謂英国紳士風の感化に由るものが多かったであろうと思われるるのであります。先生は厳粛であったので親しみ難く感ぜられた人々もあったようでありましたが先生は甚だ親切でありまして私の如き学生時代から先生御在世中は公私共種々お世話になったのでありましたが今や毎月の帝国学士院の例会に於いて先生の温容に接することが出来なくなって大いに寂莫を感ずるのであります。 先生は英語に堪能でありましたがこれは先生が英国に留学中に其の修行に非常に精励せられた結果であるのであります。前述の汎太平洋学術会議に先生が代議員の団長としてAustralia に出張の際或る所で公開講演を致されたとき傍聴者中に久し振りで立派な英語を聴いたと感嘆した人があったということであります。 先生はまた趣味の人であって弓道や園芸をやられたことがありました。明治30年頃か、私が或る朝早く先生の自ら栽培になった朝顔を拝見に参ったことを記憶しておるのであります。又晩年には娯楽として宝生流の謡曲に甚だ熱心であらせられたのであります。 さて今や我が国は未曾有の重大なる時局に遭遇し学術的にも大飛躍を行うべき時に当たり先生を失ったことは国家の大損失であって実に痛惜の情に耐えない所であります。荒木文部大臣の弔辞中に「巨星地に隕<オ>ち学界寂莫を感ず世を挙げて博士の薨去を悼むや切なり」とありました。
|